9.鳥屋楊梅 … 江戸吉原の性病 |
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鳥屋の女たち |
鳥屋とは鷹の羽が夏の末に抜け落ち、冬毛に変わる前の時期のことである。
この時鳥屋にこもってじっとしている様子が、梅毒にかかり毛髪の抜け落ちている様に似ていることから、吉原などでは梅毒にかかることを「鳥屋につく」と言った。
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梅毒のおこり |
梅毒は十五世紀、琉球、長崎、境といった貿易港から日本に上陸した。
初期の頃は「黴毒」とも書いていた。
梅毒の発疹が楊梅(ヤマモモ)の実に似ていることからこの字が当てられたともいわれている。
また、当時は「瘡毒」「かさ」などとも呼ばれていた。
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江戸の梅毒 |
江戸時代、梅毒に限らず、伝染病はほとんど治療方法のないものばかりだった。
そのため、死亡率の低い梅毒は、むしろ病と気楽に向き合うという気持ちであったようである。
現在では考えにくいことだが、梅毒にかかってこそ男は一人前などと言ったり、梅毒の症状(ゴム腫などにより鼻が欠損したりする)を川柳などで笑いとばしていた。
当時手の施しようのなかった病に対し、人々は笑い、親しむ傾向にあったといえる。
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江戸時代の治療法 |
現在のペニシリンのような決定的な治療法がなかったため、当時梅毒の薬として用いられてきたのは「山帰来」(さんきらい)という漢方薬のみだった。
これは、サルトリイバラの根、土茯苓を主としたもので、効果はあまりなかった。
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吉原と梅毒 |
吉原では「鳥屋につく」ことで一人前の遊女であると言われていた。
これは、梅毒にかかると自然に流産、死産が多くなったり、妊娠しにくくなるためで、遊女は妊娠を恥とする感覚が当時あったことが背景となっている。
また、鳥屋についていて毛髪が抜け落ち、うちしおれている様が美しい、ということまで言われていた。
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病気療養 |
高級遊女なら自分の稼ぎから「出養生」といって寮(別荘)で養生することができたが、下級遊女は悲惨なものだった。
これらの遊女は遊女屋のふとん部屋や行灯部屋に入れられたまま放置され、時には食事すら満足に与えられなかったこともあったという。
さらに、運悪く症状が第3期にまで進むと、容貌も崩れ、遊女としての商品価値は皆無。
そうなると遊女たちは吉原を追い出され、夜鷹に身を落としたり、親元に返されたりするのはよいほうで、最悪は川や投げ込み寺に捨てられたりもしたのである。
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