O
U
T
o
f
I
L
O
L
U

▼江戸吉原サイドメニュー
1.吉原以前 2.吉原誕生 3.吉原細見 4.大尽遊戯 5.花魁道中 6.手練手管 7.苦界十年 8.吉原刑罰
9.鳥屋楊梅 10.妓楼周辺 11.娼妓置屋 12.揚屋私娼 13.吉原消沈 14.吉原用語 15.参考文献

Contents

HOME
Readme
Diary
Fu-zoku
Yoshiwara
Sex Lage
STD
TEXT
Collection
Material
Pet Room
LINK
MAIL
2.吉原誕生 … 江戸吉原の誕生

吉原誕生
吉原遊郭が誕生したのは江戸時代の初期のこと。
徳川家康が豊臣秀吉の命令で江戸城に入府した天正十八(一五九〇)年八月一日から、僻地だった江戸は状況が一変する。
天下分け目の決戦、そして開幕を経て、京の都から遠く離れた関東の江戸は、鎌倉に続く新しい武士の都として発展を遂げることになったのだ。
大名の参勤交代制度にともなって、江戸には諸国の武士が妻子を郷里に残して集まってくる。
また江戸店(だな)と呼ばれる関西資本の出張所も数多くあるなど、これらの事情で当然のことながら単身赴任の男たちが大勢いる。
気がつくと江戸はむさ苦しい男ばかりの社会となっていた。
その人口は江戸時代を通じて町人は五十万〜五十五万人で、男女比は中期のころで2対1、終わりにはほぼ半々になったが、これに参勤交代でやってくる武士がいる。
武士の人口はおよそ五十万人と言われていて多くは男。
合わせて百万人と世界で最も人口の多い巨大都市江戸の6〜7割は男が占めているのである。
「娘一人に婿八人」と言われるゆえんである。
これに対して若い娘は箱入り娘などと言われて家の奥に入ったきりで、あまり外に出ることなく、往来を行くのは男、男、男で、たまに女がいたと思えばそれは婆ア。
こんなわけで男性の多くは働き盛り、そっちの方面も現役の男性だったので、遅かれ早かれ江戸各地に娼館ができるのは自然のなりゆきだった。
吉原の開業は元和三(一六一七)年三月、すでに公許の遊郭があった京や大坂、駿河などに習い、江戸中に散らばっていた私娼が一か所に集められる。
日本橋葺屋町にあった湿地(今の日本橋・人形町界隈)2丁四方(1丁=約109m、約220m四方)が割り振られ、昼間だけという条件で翌年十一月から営業が開始された。
江戸唯一の公認の遊里である。

吉原という名前
やがてはきらびやかな文化の中心地となるこの土地もはじめは一面の葭(ヨシ)の原、これによって吉原となったという説がひとつ。
葦(アシ)の茂る野原、葦の原(悪の原)ではよろしくないので縁起をかつぎ、悪を吉に変えて吉原と呼ばれるようになったとも言われている。
語呂合わせや駄洒落は粋な江戸っ子の得意とするところであった。

元吉原
吉原という悪所が江戸の中心となってしまったことを快く思わない幕府の意向により、江戸の端へとその場所が移された。
これが新吉原。
これに対して日本橋にもともとあった吉原=元吉原と呼ばれるようになった。
吉原遊郭三百四十年の歴史の中で、元吉原があったのは最初のわずか四十年だけ。
普通私たちが「吉原」と呼ぶのは新吉原のことである。
元吉原は昼間しか営業が許可されていなかった。
そのため町人(主に職人)が通うには都合が合わず、客筋は昼間は暇な武士が中心。
相手を務める遊女にも教養や格式が求められた。

新吉原
江戸が吉原を中心に開発されてしまったため、町奉行は明暦二(一六五六)年、ついに吉原遊郭街を日本堤は浅草寺裏のへんぴな田圃の一角(現在の浅草・千束)へ移転するよう命じる。
折しも翌明暦三年正月、江戸の3分の2を焼いた大火(後にいう振袖火事)で吉原も全焼。
同年六月、吉原は現在の地に移転するに至った。
これにともない、違法の売春婦であった湯女(ゆな)は全員吉原送りとなり、市中の湯屋約200店も全滅。こうしてできたのが新吉原である。
幕府は吉原が不便になった代償として、移転地は旧吉原の1、5倍の面積(総面積約二万坪)とすること、移転に際して一万五千両を支給すること、旧吉原は昼間しか営業できなかったのが今度は夜も営業してよいことなどを盛り込んだ。
夜の営業が許されたことで、 今度は町人の客が主体となって、町人文化の花が咲く。
吉原細見という吉原のガイドブックによると、享保十三(一六五六)年、二五五二人だった遊女も増え続け弘化三(一八四六)年には七一九七人にもなっていた。
新吉原は幕府の保護のもとに、江戸唯一の公娼地として明治に至るまで続く。

仮宅(かりたく)
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事が多かった江戸の町。
今の消防署とちがって当時の火消しの役割は消火ではなく、他に燃え移るのを防ぐために周囲の家々を壊すことだった。
江戸っ子の「宵越しの金は持たねえ」という威勢のいいタンカは、貯蓄していたっていつ灰になるかわからない、ということの裏返しなのである。
特に吉原は「悪所」であったため、ここで起きる火事も「悪火」と呼ばれ、たとえ火事が起きても火消しなどは手を出さず廓内は燃えるにまかせっきり。
新吉原になってから江戸時代が終わるまでの約二百年の間に吉原は約二十回も火災が発生、全焼している。
まる焼けになってしまってはいくら吉原でも商売は上がったり。
そこで遊郭は廓外で商売をすることを余儀なくされた。
これが仮宅。
仮宅は民家を借りたり、即席の掘っ立て小屋をこしらえて商売したものなので、建物は遊郭よりも粗末だが料金は廓内のときと同じだった。
しかし、気安く入れたうえ、江戸市中から比較的近い場所に設けられたので大勢の客がやって来て、ここはいつも繁昌していたという。
そういうこともあり、楼主も廓の客足が少なくなれば、「そろそろ仮宅にしたいな」などと不謹慎なことに火事を待ちわび、いざ火の手が上がったらこれ幸いとばかり、消火に消極的になったという話もある。
というのも、廓内に焼け残った見世があると仮宅は許可されなかったのだ。
仮宅の期間と場所は、希望するところを吉原名主が奉行所に提出し、許可されるという仕組みになっていた。
しかし、奉行所が希望をそのまま受け入れることはなく、許可するのは期間も場所もほぼその半分であったという。
明治になって仮宅は禁止されたが、代わりに仮普請仮小屋が使われた。
芸者などは、廓内だけの花魁文化(セックス以外の酒宴の席などでのもてなしなど)が仮宅によって廓外に伝わっていったものである。

▲ページトップへ

©1999-2003 Kaori Tanaka All rights reserved.