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13.吉原消沈 … 吉原の灯が消えた日 |
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天保の改革 |
水野越前の天保改革による岡場所の崩壊は、江戸文化史、また風俗史の上から、きわめて重大な事件であった。
さしも強大な深川の遊所もついにこの時一掃され、音羽・根津・谷中も閉鎖。なお引き続き遊女屋渡世をしたいものは、すべて新吉原へ引き移ることとなり、天保十三年六月八日の書上による吉原移転の妓家は都合六十軒を数えた。
水野越前失脚後、根津などは早々と再興した岡場所もあったが、大方は根底から機構が崩れ去ったため、簡単に復興はできなかったようである。
それでも嘉永(一八四八〜一八五四)のころには新たな花街が所々にでき、娼妓も芸者も一応は生気を取り戻したらしい。
やがて幕府崩壊のあとをうけて江戸は東京となり、明治維新政府の下で、岡場所のいくつかはそのまま生き延びたが、吉原はもちろん、四宿・根津もまた貸座敷の名において公娼の許可を得ることとなる。
吉原が本来の椎威と威厳を取り戻すのは明治新政府樹立後のことで、時の顕官たちが二頭馬車を駆って吉原へ繰り込み、豪遊に明け碁れたという。
吉原の女郎から明治高官夫人に出世した女も、 二〜三にとどまらないといわれている。
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吉原の灯火が消えた日 |
江戸時代には幕府によって公認され、幕府が崩壊した明治以降になっても、日本国家がこれを公認していた吉原。そんな吉原がようやく姿を消したのは、昭和三十三年に売春防止法が実施された時のことである。
戦後は赤線(公娼)・青線(私娼)地帯などの新語によって表現されることとなり、本場所(吉原)の消滅した昭和三十三年以降は、岡場所の語は完全な死語となったのだが、現代でも名前が変わっただけで岡場所同様のサービスをする店も多くやはり当局とのいたちごっこが続いているようである。
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