4.大尽遊戯 … 吉原での遊び方 |
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遊びのしきたり |
吉原細見片手にやってきた男たちであったが、そうすぐに遊女と寝られるわけではなかった。
そこには様々な遊びのしきたりがあったのである。
中ではあくまでも女性上位。
どんな大名であろうと、豪商であろうと、花魁と寝ようと思えば最初に「顔見せ」をしなければならない。
まず三百両という大金を遊廓に収め、部屋でじっと待たされる。
花魁が入ってきて隣に座り、チラリと顔を見る。
気に入れば煙草を一服まわして出ていく。
それで次は寝れるかというと、そう簡単ではない。
三回程、三百両を使って花魁の品定めにパスしないと布団・インは無理。
客がそれで怒ったりわめいたりすれば「お庭番」が出てきて追い出されてしまう。
駄目なら、大名も、豪商もスゴスゴと引き下がるしかないというわけだ。
そのうえ馴染みになったらなったで、その遊女以外と浮気するのもダメ。
もし見つかれば手痛い懲罰が待っているというありさまである。
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費用は巨額 |
遊女へ支払う代金を揚代(あげだい)という。
この他に幇間(たいこもち)や遣手(やりて)などへのチップが必要な上、総花(そうばな)といって妓楼の使用人全員から茶屋や船宿にまでチップを出す。
「台の物」と呼ばれる酒や料理代でも市井の二倍はしたというから、遊廓遊びはよほどの金持ちでないと出来ないものだった。
吉原は、一日千両以上(一両は現在の十万円位)の金が動く場所といわれていたのである。
江戸の金銭である両・匁・文という単位を現代の円に換算することは難しいが、『天保の江戸くらしガイド』(メディアファクトリー)に習って、現在の米の値段(十キロ五千円)を基準に、一両を四万五千円としてみると、吉原遊女一人一日のお相手料が八万円。
その他いろいろ加えると、その四〜五倍の四十万円は必要であった。
そんな吉原を、紀ノ国屋文左衛門はそっくり四度買い切ったり、座敷きから表へ小判や銀貨をバラまいたりしたこともあるというからその豪遊ぶりには舌を巻くばかりである。
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「ふり」の客 |
ちゃんとした手順を踏まず、直接娼家に入ることを「ふりこみ」といい、これは野暮だと嫌われた。
特に位の高い大見世ではふりこみ客を嫌った。
ちなみにふりこみとは、大手を振って乗り込んでくることで、空威張るばかりでその場の雰囲気に馴染んでいないことをいう。
現在は「ふり」の客というと、予約なしの「フリー」の客と勘違いしがちであるが、語源はさかのぼって見ると吉原にあったのである。
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理想の客 |
紀ノ国屋文左衛門は金の力に物言わせただけでなく、粋な吉原通でもあった。
明和五(一七六七)年に刊行された酔郷散人の『吉原大全』によれば、「心さっぱりとしていてイヤミなく、明るくお洒落で洗練され、人品高上で風流で功をあせらず、たっぷり用意した金をおしみなく遊びに使い切る」人物が最高の通人であるという。
それが出来なければ野暮と呼ばれても仕方なかったのである。
江戸中期の吉原には通人きどりの若者があふれ、「いきちょん」と呼ばれる髪形(粋なちょんまげ)や、黒の長羽織、本多銀ぎせるなどのブランドもののきせるや、煙草入れを身に付けた姿が流行した。
他にも遊里に遊ぶときは越川屋の袋物とならんで、日本橋本町丸角屋の丸角仕立ての袋物といった江戸のブランド商品を持つことが通人のしるしでもあった。
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社交場としての吉原 |
茶屋吉原を現在の風俗産業と同じように考えると勘違いしてしまう。
当然遊里であるが、社交場としての役割も大きい。
茶屋は今でいえば料亭や一流ホテルのパ−ティ−会場のようなものである。
初期には大名が豪遊し、政商が幕府高官と取引をする場としても使われていた。
時代が下ると町人の粋な遊びの場となる。
吉原では江戸の階級制度が通用しなかった。
階級より金である。
こういう中で武士は野暮、町人は粋という風潮も生まれている。
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