3.吉原細見 … 吉原への道のり |
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吉原細見(よしわらさいけん) |
吉原遊びにかかせないのが「吉原細見」。
これには妓楼の地図や遊女の名前、揚代(料金)などが一覧で示された、いわば現代のマップ付きタウン情報誌や情報喫茶といったものである。
他にも「洒落本」と呼ばれる当時のインテリが書いた一種の恋愛マニュアル本などを手にして、人々は吉原での遊びを満喫しようとした。
歌磨や写楽を世に出した蔦屋ではこれらを数多く出版、明治二○年代まで続く。
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登楼 |
吉原(新吉原のこと。以下同様)に通うことを登楼という。
登楼の方法は主に四つで、裕福なものは猪牙舟(ちょきぶね)、駕篭(かご)、馬
を用いたが、一般の人は主に徒歩で通っていた。
吉原へ向かう道は、他にあまり用のない道だけに、知り合いとすれちがっても知らん顔するのが礼儀。
この辺は今にも通じるものがある。
隅田川の西岸には「首尾の松」と呼ばれる松の木があり、猪牙舟で吉原通いをする遊客が今宵の首尾を願ったという。
「惚れて通えば千里も一里、長い田圃も一跨ぎ」とばかりに、武士も町人もそして僧侶までもが浅草田圃のなかの桃源郷を目指したのである。
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大門(おおもん) |
吉原の出入り口は大門だけである。
これは、泥棒や遊女たちの逃亡を防ぐためだ。
明け六つ(午前六時)に開かれ、夜四つ(午後十時)には閉じられていたが、遊廓の営業は深夜○時まで続き、客の出入りは横の木戸から行われていた。
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大溝(おおどぶ) |
大門のちょっと離れた左右には、水をたたえた大溝があり、これがぐるっと吉原を取り囲んでいた。
大溝は新吉原初期のころ五間(約九メートル)もの幅があり、ここでさらに泥棒や遊女たちの逃亡をシャットアウトしていた。
大溝は幕末ごろからお歯黒溝とも呼ばれるようになる。
遊女たちがみなお歯黒をつけ、口をゆすいだ水がここに流れ込んでお歯黒色に染まったからだと言う。
吉原がたんに「なか」と呼ばれ、「なかに行こう」と誘われたら吉原を指していることも、大溝で囲まれた場所だったことに由来する。
もちろん現在ではすっかり埋め立てられているが。
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仲の町(なかのちょう) |
大門を抜けるとそこは吉原の中央大通り。
左右には引手茶屋がつらなり、上質の客はここで相談してから登楼、普通の客は張見世で遊女を見たてて登楼する。
しかもその後も、「郭のしきたり」があり、現代のようにふらりと行って好き女の子を指名してすぐに遊べる、というシステムにはなっていず、様々な手順を踏んだ末にやっと布団インとなるのである。
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張見世(はりみせ) |
引手茶屋の横丁を入るとそこには遊女が座って客を待つ妓楼の張見世がある。
見世には籬(まがき)と呼ばれる格子があり、どんな籬をつけているかで見世のランクが分かれていた。
ただし、最高級の遊女はここには並ばない。現代いうところの「写真顔見せ」みたいなものである。
修正がきかないぶん、ハズレを引かされる確率も少なくなる。
格子内での並び方にも順序があり、座敷持ち、部屋持ち、新造の順に、またその中ではさらに一ヶ月の稼ぎ高の高い順に並び、最後には人気のない者だけが売れ残ってしまっていた。
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妓楼(ぎろう) |
妓楼はどれも二階建てで、一階は張見世と従業員のの日常生活の場、楼主の部屋なのである。
二階は部屋が細かく仕切られていて、客のもてなしは全てここで行われていた。
遊女はそれぞれ自分の部屋を持ち、売れっ妓ともなるとさらに専用の座敷まであったという。
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安価な見世 |
吉原の縁の通りである浄念河岸(西河岸)の見世、京町1丁目側の西念河岸の見世、そして西河岸と正反対の東側に位置する羅生門河岸(東河岸)の見世などは五十から百文で客をとった。
夜鷹が二十四から五十文ぐらいだったから、その安さについてはだいたい想像がつくかと思う。
早い話がちょんの間で、特に羅生門岸はすさまじかったという。
羅生門とは源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼の腕を切り落とした伝説で有名なところ。
その鬼の名は茨木童子といい、羅生門河岸という通り名は、ここに茨木屋という見世があったことに由来するとする説もあるが、ひやかしでもここを通ろうものなら腕をとられ、袖を引きちぎってでも入れようとする、挙句に客を蹴飛ばしても入れようとするところから「蹴転(けころ)」とも呼ばれていた。
名前だけからでもそのすさまじさが推測できるというもので、『羅生門腕を抜かれるかと思い』という川柳も残っている。
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見返り柳 |
一夜を吉原で過ごした客は大門を出て、現実の世界へと戻っていく。
そのとき様々な思いを込めて吉原を振り返るとそこには一本の柳の木が。
これが「見返り柳」。
東京の街路樹がすべてポプラとなっている現代でも、ここには何代目かの見返り柳が立っている。
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